急ぐ必要なんかない。目的地への道は、まだ開かれてすらいないのだから。
 人混みを抜けて、細い裏路地に入った。焦れるように視線を落とすと、可笑しそうに笑った妖精が声を上げる。
「さぁ、眼を閉じて。扉を開くわ」
 妖精が言い終わらない内にイギリスは瞼を落とす。そして暖かい光を感じながら、息を吐きだし心を落ち着かせた。
 少し遠くなったところで妖精の声がする。その声に合わせて、まずは右足を差し出した。
 一歩、二歩、三歩。コンクリートを踏んでいた感触が、変わった刹那に目を開く。
 そこに広がる先程までとは何もかもが変貌した緑の世界に、イギリスは満面の笑みを零した。
「イギリスっ!」
 世界の中心。聳え立つ木々が丸く切り抜かれた空間の中央にそっと佇んでいた存在が、イギリスの名を呼んだ。白いなめらかな生地の服を纏い、金色の髪を靡かせて。
微笑んで薄く開かれた瞼からは、輝かしいブルースカイの瞳が覗いている。
 地を蹴って駆け出した自分よりも大分と小さい存在を、イギリスは大きく広げた両手で受け止めた。
「ただいま、アメリカ」
 まるで楽園にでもいるかのような幸福感に包まれて、イギリスは小さなアメリカを力強く抱きしめた。
 ここは夢にまで見た楽園なのだと。そう、感じながら。





 そっと、どれくらいぶりの事だろうか。イギリスから伸ばされた手がアメリカの頬に触れる。指を動かして、濡れていた頬を拭うとそのまま柔らかく包み込まれた。
 その感覚にまた涙が溢れそうになる。イギリスから触れられた。それだけの事が酷く心を和らげた。
 イギリスはまだ、アメリカの事を想っているのだろうか。他の相手がいたとしても、アメリカの方が大事だと思ってくれているのだろうか。
 堪らなくなって目の前の存在を抱きしめると、今度はちゃんと背中に回された腕の感覚が伝わってくる。今、自分とイギリスは抱きしめあっているのだ。
 久しぶりに感じるイギリスの匂い。それに安堵してようやく優しい声を出せた。
「イギリス…お願いがあるんだ」
「…何だよ」
「俺に何か不満があるなら言って欲しい。抱き方が雑だとか、痛いとか、その他にも。
君の料理だって文句なんて言わないし、本心で思うところじゃないんだってわかってもらえてると思ってた。
でも、君が他に目を向ける程に傷付いてたなら反省する。だから…」
 まだ気持ちがこちらに傾いているならずっとこの腕の中に居て欲しい。離す気なんて更々ないけれど、出来るならイギリスが望んでここに留まって欲しいと願う。
その想いを込めて抱きしめる腕の力を強めると、イギリスの身体から力が抜けるのがわかった。
 背中の手がきゅっとアメリカの服を掴み、更に安心感が増す。イギリスはきっとアメリカから離れようなんて思っていないのだと、そう思えた。
「…ごめんな、アメリカ」
「…俺が君を傷付けた上での事なら、俺だって謝らないと」
「……俺も、お前にお願いがある」
「何?」
 すっかり気持ちが落ち着いて、優しくイギリスの髪を梳いて問いかける。他に目を向けられる位ならどんな願いでも聞いてやれると思った。
他でもないイギリスの、最も愛すべき存在の願いなら、と。
 そう思っていたアメリカの気持ちは、そのイギリスの言葉によって無残にも打ち砕かれる。
「俺を、抱かないで欲しいんだ」
 はっきりと告げられたその願いは、アメリカの思考を闇へ引き戻すには十分過ぎるものだった。





「いやっ…嫌だ!アメリカ!お願いだから止めてくれ!」
 イギリスが暴れる度にガタガタと音を立てるテーブルを足で押さえつけながら薄汚れたシャツに袖を通す。
わかりきっていた事だが随分窮屈で大分と袖が足らない。
 きっちり着こなす必要など無いと気にせずその上に同じくきついスーツを羽織って床に視線を落とせば、既に全ての衣服を剥いだイギリスが身を震わせながら転がっている。
両手は今アメリカが着ている服のタイでテーブルの脚に縛り付けておいた。かなりきつめに縛ったので痛いかもしれないが、仕方ない。暴れるイギリスが悪いのだ。
 ズボンは流石に入らないと諦めて、シャツもスーツも前は肌蹴たままだが良しとする。テキサスを外してしまえば出来上がりだ。
その格好でイギリスに跨ると、彼はぴたりと動きを止める。それでも身体の震えは止まらないようで脅えているのが丸わかりだ。
恋人に押し倒されているだけなのにその反応はどうなんだと思いつつも、優しく、優しく微笑みかける。
「どう?イギリス、これも君が昔俺にくれた服だよ。もうこんなに小さくなっちゃったけどね」
「あ…え?わ、わか、んな…昔…?」
「そう、わかんないんだ。本当におかしくなっちゃってるんだね、君」
 ここ数週間触れていなかった肌は相変わらず白い。最近は外に出ていないから尚更だ。
久しぶりの行為に胸躍る筈なのに、イギリスは脅えて自分の心は泣いている。全くもっておかしな話だ。
「ねぇイギリス、なんでそんなに嫌がるの。君は俺を大好きで、俺も君の事大好きなのに。なんで?」
「ふぅっ、や…っ!」
 堪らず胸の際にきつく吸いついて跡を残した。真っ白な肌に咲いた自分の跡に満足して、少しずつ場所をずらし次々に沢山咲かせていく。
吸いつかれる度イギリスは気持ちよさそうな声を上げながら、それでも嫌だと口にした。それがアメリカを酷く苛々させる。







木々の合間から覗いていた空が、蒼かった筈の眩しい空が今は灰色にくすんでしまっている。
 呆然とそれを見上げていると、不意に周囲の空気ががらりと変わるのがわかった。緑の匂いは土の湿ったものへ、草を踏んでいた感触も緩い地面に埋まる感覚へと変化した。
 そして自分を見下ろして目を見開く。身に着けていた筈の普段着は色を派手な赤へと変え、そして服の型までも変貌を遂げていた。

 目の前のアメリカは自分の夢の中の存在ではなく現実のアメリカだという事はすぐにわかった。何故なら、夢見る事の出来る楽園でイギリスは絶対にこの場面を選ばない。この場面だけは、絶対に。
 イギリスはもう一度聞いた。立ったまま静かに自分を見下ろすアメリカに、何故、この場面を選んだのかと。そして再び答えは返されず、三度目は堪らずに叫んだ。
「どうしてだアメリカ!なんで……なんで「ここ」を選んだ!?」
 悲痛な叫びは僅かに雨音にかき消され、それでも灰色の空に響く。忘れもしない、あの日と全く同じ空。ヨークタウンのその色がどれ程イギリスを苦しめたか、知らない筈はないだろう。
 あの日、この地に膝をつき、アメリカに頭を垂らした事。それがどれ程心の傷となって残っているのか、わかった上での選択なのか。


「答えてくれ……アメリカ」



09.12.17