昼下がり、シエスタ前の少しの時間。
「だから、〜して、は、〜したって」
「飯作れ、は、飯作ったって?」
「んー、ちょっと違う気もするけど…まぁあってるかな」
日当たりの良い窓辺にテーブルを移動させてスペインにスペイン語を教わるロマーノは、眉間に皺を寄せながらも真剣な表情を浮かべていた。
そもそも言い出したのはロマーノで、スペインとしては断るどころか嬉しい申し出に二つ返事で了承。そして今に至る。
今日で既に一週間。当初心配していた三日坊主にもならず真面目に取り組むロマーノをスペインは微笑ましく、そしてうれしく思っていた。
ノートに必死に書き取りする小さなその手を眺めながら、ふとロマーノの瞼が落ちそうになっている事に気付く。
「眠い?ロマ、もうシエスタするか?」
「んー、もう少し…」
「無理しなくてええよ」
ノートを閉じて、スペインは軽々とロマーノを担ぎ上げる。
口ではまだ大丈夫、降ろせコノヤローと悪態を吐いてはいるが、身体は素直でスペインの服をぎゅっと握りしめて暴れたりはしない。
ベッドに優しく降ろして、シャツもパンツも脱がせてからシーツを被せる。裸で眠るロマーノの習慣にもすっかりと慣れてしまった。
うと、と瞬いて、スペインを見上げたロマーノは小さく、小さく呟く。
「…スペイン、は?」
「ん?」
「シエスタ…しないのか?」
「するよ。ロマーノが寝たらな」
ぽふ、と頭を撫でればその手をふわりと包まれる。
驚いて目を丸めると、弱く手を引っ張られた。
「お前も、一緒に寝ればいいだろ…」
「え?」
「一緒に……寝たって」
「っ、」
言ったきり、ロマーノは完全に瞼を落として寝息を立て始めた。それでもしっかりと、スペインの手は握ったままで。
暫くそのまま寝顔を眺めたスペインだが、一つ息を吐いてベッドの空いたスペースに乗り上げる。
小さな身体を抱きしめるようにして、額に一度口付けてから目を閉じた。
「おやすみ、ロマーノ。良い夢見たってな」
スペイン自身も眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。
「スペイン、起きろコノヤロー」
「んっ……ロマーノ?」
ぼやけた視界に見慣れた人影が映る。目を擦ると、確かにロマーノの姿がはっきりと映し出された。
シャツ一枚を羽織った姿は、彼も寝起きだと言うことを物語っている。そしてふと、スペインは違和感を感じ取った。
「あれ……ロマ、いつの間にでかなったん?」
「はぁ?何寝ぼけてんだ馬鹿スペイン」
呆れた様に肩を落としたロマーノに、スペインはようやく自分が夢を見ていた事に気付いた。
そう、夢。懐かしい、小さいロマーノと自分が共に過ごしたあの頃の。
黙り込んでいると、ロマーノにシーツを剥ぎ取られる。朝の肌寒さに身を震わせると、シャツとズボンが放り投げられた。
「早く着替えて飯作れコノヤロー」
「ああ…うん」
言うだけ言って、ロマーノはさっさと自分の着替えに専念してしまった。スペインも、ゆっくりと身体を起こしてシャツに腕を通す。
ポタンを留めながら記憶を辿ってみた。自分はいつまでロマーノにスペイン語を教えていただろうか。
あれから暫くも勉強会は続いていた、気がする。ロマーノもたまにはスペイン語を織り交ぜて話していた。
いつからか勉強会も、ロマーノがスペイン語で話す事も無くなった。それが何時どのタイミングだったのか、全く思い出せない。
「なぁロマーノ」
「あ?」
「なんでスペイン語話さんの?」
ぴく、とズボンのベルトを留めていたロマーノの動きが止まる。
けれどスペインは気付かずに問い掛けることをやめなかった。
「結構話せるとこまで勉強したやんなぁ?なんで止めたんやっけ?」
「…お前、覚えてんのか?」
「うん、ロマにスペイン語教えてたのは覚えて、」
「違う」
ロマーノが振り返る。その表情に、スペインは言葉を飲み込んだ。
昔の愛らしさとは違う、端正な顔立ち。弟のヴェネチアーノが可愛いと形容されるならば、ロマーノは美しい、だ。
そんな親バカなのかなんなのかよくわからない事を考えている間に、続けてロマーノが口を開く。
「俺がなんでスペイン語を話さなくなったか…なんで、スペイン語の勉強をやめたのか」
「え…」
「覚えてるのか?」
その質問に答えるならば、答えはNOだ。
けれど、そう答えてはいけないような雰囲気を、ロマーノは出している。
しかしその戸惑いはロマーノに伝わったのだろう。顔を背けて、視線だけをスペインに向けたロマーノは低い声を発した。
「覚えてなくても無理ねぇよ。俺、お前には言わなかったから」
「…何、を?」
「スペイン語を、話さなくなった訳」
スペインは安堵の息を漏らす。どうやら忘れている訳ではなく、自分の知るところではないらしい。
けれどロマーノから落胆の表情は消えない。自嘲気味に笑って、後ろのチェストに手をついて身を反らせた。
「あの時の反応で、なんとなく気付いたんじゃねーかと思った俺が馬鹿だった」
「ちょ、ロマ、」
「お前鈍いってわかってたのに」
「ロマーノ!」
ベッドから飛び降りてロマーノに駆け寄る。肩を掴んで、顔を覗き込むように背を屈ませた。
「なぁ、怒ってるならゴメン。謝るから、教えたって?」
「…意味ないから」
「え?」
「スペイン語を話せるようになる、意味が無くなったから」
−もういい。意味、無くなった
スペインの脳裏に声が響く。ロマーノの物と、もう一つ。
同時に思い出した。最後にスペイン語を教えたあの日、教えた言葉は確か−
「好きやで。だから、抱きしめて、キスしたって」
「好きだ、が、好きやで?」
「そう。キスして、は、キスしたって」
スペインの言葉を繰り返すロマーノの頬にキスしてやる。すると、途端に顔をトマトの様に真っ赤にしてスペインを睨み上げた。
「な、何すんだこんちくしょーが!」
「だってロマがキスしたってって言うから」
「そっ、それは勉強だからだろ!」
「でも、楽しみやわ」
スペインはくしゃりと顔を崩して、心底幸せそうに笑いながらロマーノの頭を撫でる。
小さな身体をふわりと抱きしめて、耳元に口を寄せて囁いた。
「好きやで、ロマーノ。めっちゃ好き」
「は、あっ!?」
「こうやって、ロマーノが俺ん家の言葉で好きやって言ってくれんの、めっちゃ楽しみ」
「………」
弾んだ声で告げると、くい、と弱い力で引き離される。
見下ろすと、仏頂面をしたロマーノが素早くスペインの腕から身を逃がした。
呆然とするスペインに、ロマーノは不機嫌を隠そうともせずに睨み付けてから背を向けた。
「ロマ、」
「もういい」
「え?」
「意味、無くなった」
言って、そのままロマーノはベッドに向かってシーツに潜り込んでしまった。
そこからは機嫌の悪いロマーノを宥め、理由を聞き出すのに必死だった気がする。
けれど三日も経てばスペインはそんな事忘れてしまったし、ロマーノも不機嫌を表すことは無くなったのでそのままうやむやになってしまったのだ。
「教えて欲しいか?」
顔を上げれば、間近にロマーノの綺麗な目があった。強く光を発する瞳に、思わずスペインの喉が鳴る。
ロマーノの手が、スペインの胸元の服を掴んだ。激しく脈打つ心音がばれるのではないかと冷や冷やしながら、スペインはただロマーノの言葉を待つ。
「お前が、毎日毎日簡単に口にするような言葉なら、必要無いと思ったんだよ」
「え…?」
「好きだ、も…キスして、も。スペイン語で言ったって、お前には意味なんか届かない」
ぎゅ、と服を掴む手に力が籠る。スペインは最早トマトの様に赤いのはロマーノでなく自分なのではないかと、気が気ではない。
目に膜を張って、ロマーノがスペインを見上げる。今まで一度だってロマーノに感じた事の無い感覚に、スペインは戸惑った。
色気、だ。ロマーノの目から、口から、色気を感じ取っている。
見とれていると、しっとり濡れた唇が開かれる。覗いた赤い舌に、更に胸が高鳴った。
「一番大事な言葉は、イタリア語でもスペイン語でも変わらなかった。だから、勉強は必要無くなった」
「一番、大事な言葉…?」
時にして、一秒。ほんの刹那の間を開けて、ロマーノとスペインの唇が重なった。
今まで幾度となく交わしてきたそれとは違うと、そう感じさせるキス。
互いに目を閉じる間もなく、一瞬の内に終わったその行為に、スペインは目を見張った。
そして、囁くようにロマーノの声が響く。
「愛してる」
真っ直ぐにスペインを見据え、その言葉は放たれた。
途端、スペインは全身を熱に支配される。身体中に血が巡るのを、まざまざと感じた。
驚いた表情のスペインから離れ、ロマーノは椅子にかけていたネクタイを手にしてドアへ向かう。
部屋を出て行く間際に振り返ったその表情は、普段となんら変わり無いものだった。
「早くメシ作れ。会議遅れんぞ」
バタン、とスペインの返事を待たずに音を立ててドアが閉まる。取り残されたスペインは、五秒程経って一気に床へ崩れ落ちた。
鼓動が速い。身体が、これ以上無い程熱かった。
ふと目に入った鏡。そこに映った自分の赤さがどうにも恥ずかしくて、両手で顔を覆ってしまう。
「え、え……ええ?」
ようやく出た声はそれだけだった。ロマーノの言った言葉が、頭から、耳から全く離れていかない。
何度も何度も繰り返して、そして気付く。
その言葉が、きちんとスペイン語の発音で言われた事実に。
「……ほんまに?」
一人呟いて、けれどそれがロマーノへの問いかけなのか、それとも。
初めてロマーノに対して親心以外の感情を抱いてしまった自分へのものなのかは、スペイン本人にもわからなかった。
-------------------------------------------------------
ずっとロマーノのターン!
なんか親分鈍くて苛っとしたので書いてみた。攻めロマ。でも西ロマ。
標準語と関西弁の「愛してる」発音の違い。そんなの文章で表わせられるわけない。
そのうち続きとか書けたらいいなと思いつつ。
09.05.09