海中時計、銀細工のカフスボタン、レリーフの刻まれたライター。
決して自分の物ではないそれらは、ロマーノの部屋の引き出しに所狭しと並べられていた。
「ロマーノ、俺の万年筆出して!」
バタン、と勢いよくノックも無しに開かれた自室の扉に、ロマーノは特に驚く事も無く読んでいた本から視線を上げた。
カッターシャツにネクタイを締め、スラックスを履いた姿を見て、スペインが外出するのだと知る。
慌てようからして、上司からの急な呼び出しか何かだろう。昨日の時点では出かける予定は無いと言っていた。
「万年筆…ああ、羽の模様が入ったやつか?」
「それやそれ、早く!」
急いでいるらしいスペインに急かされ、ロマーノは重い腰を上げてデスクに向かう。
引き出を開けて表れた並んだ品々は、すべてがスペインの物だった。
言われた万年筆は大分奥の方に入っていて、もう大分と長いこと光を浴びていない事がよくわかる。
手に取ってスペインを振り返ると、途端目を瞬かせた。
「それそれ!よう持ってたなぁ」
「これはまだ新しい方だ。十三年前だから」
「そう?でも助かったわ、今日それくれた上司に会わないとあかんねん」
ロマーノから少し重い万年筆を受け取って胸ポケットに挿し、一安心したように肩を落とす。
しかし時計に目をやると再び慌てたスペインは、ロマーノに礼を言ってすぐに部屋を飛び出していった。
それを見送った後、溜息を吐いたロマーノは握りしめていた右手をそっと開く。
手の平に乗ったタイピン。緑の石が埋まったそれに視線を落として、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「いつまで続けんだよ…こんな事」
一人呟いても、答えなんて帰ってくる筈が無かった。
「特技はスリです、なんか絶対他で言うたらあかんで」
まだ自分よりは大分小さなロマーノの手を引きながら、スペインは言い聞かせるような柔らかい口調で話す。
繋いだ手を必死に離すまいとしながらも、ロマーノは頬を膨らませて顔をぷいと背けてしまう。
「仕方ねーだろ、そういう国なんだよ家は」
「だからってなぁ、黙って人のモン頂戴したらロマーノ悪い子やで?」
少し低い声で言われ、ロマーノは黙り込む。
たまたま、偶然見てしまったのだ。初老の女性から少年が財布をスった瞬間を。
だから、少年から財布をスリ返して女性に返してあげようとした。ただそれだけの事。
しかしタイミングが悪かった。青年から財布をスったところを警官に見つかり、不様にも御用となったのだ。
後に女性の証言からロマーノは無罪放免になったのだが、保護者としてスペインが呼び出され今に至る。
警官がきちんと事情を説明してくれたのはいいがスペインにはこうしてきっちり咎められている結果に、ロマーノはひたすら不満を隠そうとはしない。
その態度にスペインは音を立てずに息を吐き、足を止めてしゃがみ込みロマーノに視線を合わせる。
大きな手で小さな頭を覆い、優しく撫でながら口を開いた。
「ロマーノ。おばあちゃんの事思って財布取り返したろってしたんは良い事やで。でもな?やっぱりスリはあかん。癖ついてもうたらどうするん」
「……わかった、もうしない」
「…よし、良い子や」
素直に頷いたロマーノに、スペインは満足そうに満面の笑みを浮かべる。
そして再びロマーノの手を取って歩き出した。暫く無言でその隣を歩いて、ぴた、と今度はロマーノの足が止まる。
軽い力に引かれスペインも立ち止まると、ロマーノは俯いて地面をじっと眺めていた。
「ロマーノ?」
「…でもな、スペイン。どうしようもないんだ」
「え、」
「俺は、国だから」
スペインが目を丸める。ロマーノは顔を上げて、真っ直ぐにスペインを見据えていた。
もう直ぐ落ちる夕日が照らした幼いその顔は、困ったような笑みを浮かべている。
「国は、どうしても国民の特性の影響を強く受ける。知ってるだろ?」
「…それは、」
「約束したから、もうスリは絶対しない。けど、国民が変わらないと俺は変われない」
驚きに胸が支配された。スペインは、ロマーノがこんな難しい言葉を使って話せるようになっていただなんて知らなかった。
唾を飲み込むと、喉が音を立てた。それに気付かずロマーノは、相変わらず自嘲気味に笑っている。
「俺は、南イタリアだから」
途端、スペインの視界が揺れた。次いで、ロマーノの驚いたような表情が映る。
ぱた、と地面に何かが落ちて初めて、スペインは自分が泣いているのだと気付いた。
「あ、あれ…?」
「ちょ、なっ、何泣いてんだばかやろー!」
「いや、違っ…だって、」
スペインは慌てて自分の袖で目を拭う。けれど涙は止まらなかった。
自分は、南イタリアだからと。寂しそうに、悲しそうにロマーノが言った。
そしてそれを言わせたのはスペイン自身。それがどうしてか、スペインを堪らない気持ちにさせたのだ。
何が何だか分からずにうろたえるロマーノを抱きしめて、小さな肩に顔を埋める。
気持ちを整理して、馴染んだ匂いを嗅いで心を落ち着かせた。
「ゴメン、急に泣いたりして」
「いや…別にいいけど」
「…なぁ、ロマーノ。俺やったらいいよ」
「は?」
「スリ。俺からスったらええねん」
顔を離して伺うと、ロマーノは目を見開いてスペインを凝視していた。
暫く経つと、眉間に皺を寄せたロマーノが再び疑問の声を上げる。
「…意味がわかんねーよこんちくしょーが」
「だから、スリはロマーノの特性やねんから、辞めなくていい。けど、やっぱり人に迷惑かけるから、他の人はあかん。でも、俺やったらいいよ」
「………」
「俺が、ロマーノの全部受け止める」
こつん、と額を合わせたスペインは涙を止めて、しっかりとロマーノを見据えて言う。
確かに良い事だとは言えない。けれど、それが「南イタリア」であり「ロマーノ」であるならば。全て、せめて自分だけは受け入れてやりたい。
それがスペインの本心だった。
ロマーノは困ったように視線を泳がせ、くぐもった声を絞り出す。
「…軽々しくそんな事言ってんじゃねーぞ、馬鹿スペイン」
「軽々しくちゃうよ。真剣やで」
「俺が…お前の凄く大事なもん取ったらどうすんだよ」
「…それは大丈夫」
立ち上がって膝を払い、手も叩いて砂を落としてからロマーノの手を取る。
スペインは目を細めて、自信気に言ってのけた。
「一番大切なものは、絶対取られんようにしとくから」
「…絶対か?」
「うん、絶対」
「もし取れたら?」
「そうやなぁ…」
歩き出して、もうすっかり暗い空を見上げながらスペインは少し考える様に唸り声を上げる。
しかしすぐにロマーノに向き直り、満面の笑みを浮かべた。
「そしたら、返して」
「なんだそれ」
「いいやん、そん時はちゃんと返したってな?」
「…わかったよチクショ―が」
ぎゅ、と繋いだ手に力が籠るのがわかる。そうして伝わる体温に、スペインは穏やかな気持ちになって自分もそっと握り返す。
暗くて良くは伺えないが、きっとトマトの様に顔を赤くしているであろうロマーノを眺めながら、ゆっくりと家路についた。
その日から、もう数えるのも億劫な程の年を共に過ごした。
言われた通り、ロマーノはスペインから日々色んなものを失敬した。
それら全てをスペインが把握しているのかはわからない。けれど。
少なくとも今までスった物の中に、スペインの「一番大切なもの」は無いのだと言う事はわかる。
元から無頓着な男で、何に関してもそこまで想い入れてはいないのか、スってすぐにスペインが気付いて返せと言って来た事は無かった。
大分と経って、ロマーノも忘れた頃に必要になり取りに来る。それがお約束となったのだ。
段々と回数は減ったものの、ロマーノは未だにスペインから物をスリ続ける。
スペインの家で過ごし、実家の影響も薄れていると言うのに、だ。
いつまで続けるのか、そんな事。
ロマーノにだって、わからない。
「ロマーノ、起きてる?」
夜遅く、普段ならとっくに眠りについている時間に控えめにドアがノックされた。
偶然夜更かしをしていたロマーノは、ベッドから降りてゆっくりとドアへ向かう。
ドアを開くと、まだ仕事から帰った姿のままのスペインが申し訳なさそうな表情を浮かべて立っていた。
「ゴメン、起こした?」
「いや、起きてた。何だよ」
「あんな、俺の指輪持ってる?内にエメラルド埋まった、シルバーの」
「ああ…」
言われてすぐに当たりがついた。そしてすぐに不快な気持に包まれる。
その指輪は、スペインがオーストリアと結婚していた際に着けていた物だ。
いつだったか、大切な物とは絶対にこれだろうと取ったにも関わらず今までロマーノが持ち続けていた物。
身を翻して、いつも物を閉まっている引き出しとは違うチェストに向かう。
一段目の奥に、きちんと布製の袋に入れておいたそれを取り出してスペインの元へ戻った。
「これだろ」
「なんや、いつものごちゃごちゃの中ちゃうかったん?」
「…一応、大事なもんだろ」
ん、と差し出すとスペインは受け取って、間延びした声を上げてからははっと乾いた笑いを洩らした。
「まぁ、大事かなぁ。明日持ってこいて言われてさぁ、オーストリアに」
「何で今更」
「なんかな、あいつ今ドイツのとこおるやん?生活きついらしいで」
軽く笑いながら言うスペインに、ロマーノは目を丸める。
まさか、とは声にならないまでも口を開いて、スペインの胸元を掴んだ。
「売るのか!?」
「ん?うん多分。これ結構良いヤツやし、売ればそれなりに、」
「大事じゃないのか!?」
ロマーノが上げた大声に、スペインの言葉が途切れる。
少し驚いたような表情を見せて、けれどすぐに再び笑みを浮かべた。
「ロマーノ、もしかしてこれが俺の一番大事なもんやと思ってた?」
「…それ、お前滅多に持ち歩かなかったから」
いくらロマーノでも、指に嵌めた指輪は流石にスる事は出来ない。
スペインはいつも指輪を嵌めない時は、鍵付きの箱にしまっていた。
だからそれが大事な物だと思い、牛の手入れで水を使う際スペインが指輪を外してズボンのポケットに入れたのを見計らってスったのだ。
すぐに返せと言ってくるだろう。それが一番大事な物やから返して、と。
結局そうは言って来なかったのだからこの指輪は一番大事なものではないのだろうとわかってはいたが、余程大事なものに変わりは無い筈。
そう思っていた。なのに何故、こんなにも平気そうにしているのか。
ロマーノがぐるぐると渦巻く思考を廻っていると、呆れたように溜息を吐いたスペインがそっと胸元の手を外す。
「あのなぁ、オーストリアとの結婚は政略結婚やで?俺はええように使われただけ。指輪もお飾り。わかった?」
「……じゃあ、」
「ん?」
「俺は、お前の一番大事なものをまだ持ってないのか…?」
つい声が上ずる。少しだけ泣きそうになって、必死にそれを堪えた。
わかっていた。引き出しの中の物全てが、スペインの一番ではないという事なんて。
けれど、ロマーノはどうしてもその一番を奪いたかった。何故かなんて聞かれてもわからない。何度自問自答しても答えなんて出なかった。
スペインに掴まれた手を見つめていると、不意に離されて顔を上げる。
どこか不機嫌をあらわにした珍しいスペインの横顔に、ロマーノは息をのんだ。
「知らん。持ってないんやろ」
「…スペイン?」
「別にいいやん、俺の一番大事なものなんて」
そのまま身体を背けて部屋を出て行こうとするスペインの腕を咄嗟に掴む。
振り返ったスペインは、やはり怒っているようだった。
「…この際だ、教えろよこのやろー」
「なんで?」
「き、気になるじゃねーか」
もっと言いようはあるんじゃないかと、自分でも思った。
けれど余裕が無かった。もうずっと彷徨っていた、謎の迷路。
もっと早くこうすれば良かった。答えを持つ男が、目の前にいるのだから。
焦りの混じった視線を向けると、スペインは黙って、眉間の皺を深くした。
「…俺、ロマーノにはずっと答え言うてたけど」
「え?」
「気付かんかったのは、ロマーノやろ」
はっきりと、怒りの口調で告げられて唖然とする。
ずっと、答えを聞かされていた?
そんな訳無い。それならばとっくにロマーノはスペインからそれを奪っていた筈だ。
知らない。知らされていない。教えてなんてもらってないと、ロマーノの焦りが濃くなっていく。
「し、知らない。お前の一番大事なものなんて…」
「可愛い、ロマーノ」
「は?、っ!」
掴んでいた腕を、逆に掴まれて壁に押し付けられる。
昔より大分と縮んだ差で見下ろされ、近い位置にある顔に頬が熱を生んだ。
驚きで動く事の出来ないロマーノの耳に口元を寄せ、スペインは続けて囁く。
「めっちゃ可愛い、ロマーノ」
「な、」
「俺の大事な、大事なロマーノ」
「っ!」
びくり、と身体が揺れる。今まで何千何万回と言われてきた言葉が、今までとは違う形で脳に響いた。
そんな、まさか、と。
押さえつけられた手首の痛みも感じない程、ロマーノの全てが硬直した。
定まらない視線を上げると、辛そうなスペインと目が合う。今まで一度だって、笑顔で無い表情で言われた事の無い言葉だと言うのに。
「今更気付いた?遅いわ。こっちはもう何百年と待ってるのに」
「………」
「お前に、奪われるのを」
「は、…んっ…!」
何とか言い返そうと開いた口は、早々に塞がれた。
過去繰り返した家族のキスじゃない、深い口づけ。
スペインの舌が、ロマーノの口内に入ってくる。熱が、直接伝わってくらくらした。
きつく目を瞑り、なんとか逃れようと思っても力が入らない。
いつのまにか押さえられていた手は解放され、スペインはロマーノを抱きしめていた。
「っ…御望み通り、教えたったよ?」
「は、ぁ…っ」
「トルコにも、フランスにも渡さんかった。決めてたから」
「………」
「俺の一番大事なものは、お前にしか渡さん、って」
「っ、」
不意に蘇る、傷だらけのスペインの姿。
自分を手放さない為に戦い、血だらけで玄関先で倒れた事もあった。
あんな、小さな自分の為に。それこそ、約束以前の事だと言うのに。
そんなに前からスペインは自分を大事に想っていたのかと。それも、一番。
ロマーノは衝撃で声が出ない。目の前のスペインが、慣れ親しんだ人物と同じには見えなかった。
ようやく身体を離したスペインは、いつの間にか落としていた指輪を拾い上げて暫し眺める。
壁に背を預け、ずるずると腰を落としたロマーノに、今度はいつも通りの笑顔を向けた。
「ゴメンな、ちょっと色々爆発したわ」
「……あ、」
「後、約束破棄。返しに来なくてええよ」
「え?」
「お前にスられた、って言うより、俺が押し付けてしまったし」
声を立てずに笑って、でも、と続ける。
部屋を出て行きざまに首だけで振り返り、また、切ない表情を見せた。
「ロマーノが同じ気持ちなら、返しに来て」
「えっ…」
「ロマーノが俺を一番大事と思うなら……返しにきたって」
言って、すぐに音を立ててドアが閉められる。
廊下の明かりを遮断した室内は、再び闇に包まれた。
長年彷徨った迷路をようやく抜けたと思ったら、そこにあった答えは「自分」だった。
感情と記憶が脳内で混ざる。心拍数が上がり、胸を押さえてどうにか抑えようと試みた。
初めて感じた、スペインの熱。感覚を思い出して、頬がかっと熱くなる。
再び迷い込んだと思った迷路の出口は、入ってすぐに見つかった。
「…どうやって返せって言うんだ、こんちくしょーが……」
その呟きにも勿論、答えてくれる者等居る筈が無かった。
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強気スペイン。怒らせると恐いらしいし。
一体何個告白話書けば気が済むんだって位似たような話ばっかり思いつきます。
二人はいつ恋心に気付き、いつ相手に伝えるのか?が西ロマの醍醐味な気がする。
そんなもん妄想の数だけあるに決まってんだろ!と一人で萌えて一人で苦しんでます。一人楽し(以下略
基本攻めには夢見る私です。偽親分すみません…。
09.05.27